文化庁調査発表。“日本語の乱れ”の張本人はオールドメディアではないか?「必ずや名を正さんか」【呉智英】
『言葉につける薬』より
■必ずや名を正さんか
『論語』子路篇に、こんな話がある。
戦国期も近い春秋末期の衛の国は、政争が続き、社会秩序も大きく乱れていた。孔子の高弟の子路が「先生が衛に招かれて改革を委ねられたら、まず何をなさいますか」と尋ねた。不穏分子の排除が第一だとか、政争の仲裁をまず行なうとかの答えが返って来ると予想していた子路に、孔子はこう答える。
「必ずや名を正さんか」
「名」というのは「言葉」である。ただ、それは個々の「単語」ではなく、「論理としての言葉」である。『ヨハネ福音書』の「言葉」に近いと思えばよい。もっとも、後世、例えば日本で「真名(正式な文字。漢字)」「仮名(仮に使う文字。平仮名・片仮名)」という使い方をされるように、「名」は「文字」という意味にも広がる。
しかし、もともとは一つ一つの事物や現象を分類して名づけ、秩序ある体系に組み立てる論理のことである。ここから「名分」という熟語も生まれる。今では、本音に対する建て前という意味で「(大義)名分」が使われるけれど、本来は現実界を正しく秩序づけて認識する論理・規範の体系という意味だ。
さて、混乱する衛の国にまず必要なのは「名」であると答えた孔子は、一見迂遠な「正名(名を正す)」が何故重要なのか、説明を加える。
「『名』が正しくなければ言論も順当でなく、言論が順当でなければ諸事はうまくゆかず、諸事がうまくゆかなければ文化も豊かにならず、文化が豊かでなければ法律も適切でなく、法律が適切でなければ民衆の日常生活にも支障が生じるのだ」
「名」とは、現代思想のキーワードに換言すれば、「パラダイム(思想の枠)」となるだろう。今まさに近代のパラダイムが混乱を見せ始めている。
本文にも書いておいた。ロシヤでは、福祉の充実と物価の安定を訴えてデモ行進する社会主義者・共産主義者が“保守派”、これを武力弾圧し共産主義者を投獄する人たちが“革新派”。日本とは正反対である。「おっとり刀」と「おっとり構える」と同じくらい正反対である。明らかに乱れた日本語である。それなのに、一度として訂正記事が出たことがないまま、新聞でも雑誌でも書籍でもテレビでも、使い続けられている。
この乱れは、単語の混乱ではない。「名」の混乱という意味で、根源的な言葉の乱れなのである。「保守」も「革新」も内容のない「名分」と化していることの表れなのだ。「名」の混乱、パラダイムの混乱なのである。
必ずや名を正さんか。
私が日本語の乱れを指摘するのは、孔子と同じ気持ちからである。私は「単語」を正したいのではない。「言葉」を正したいのだ。
もちろん、人類史上最初の大思想家孔子に自分をなぞらえるほど、私は傲慢ではない。才能、見識、人格、そのいずれにおいてもその万分の一にも及ぶまい。それ故、「名を正さん」の意気込みのわりに、本書はただの“言葉雑学漫歩”になってしまっているかもしれない。しかし、それでもいい。言葉と思想について、言葉と文化について、私がちらりとかいま見た面白さが、いくらかでも読者に伝われば、私の役目は十分果たせたことになるはずである。
あらためて言う。
必ずや名を正さんか。
〈『言葉につける薬』より構成〉